Masukデスクの端に、包装紙に包まれたままの花束をそっと置いた。
「おかえり西園寺。……って、何そのすごい花束」
向かいのデスクから松本くんが目を丸くし、チーフの村田さんまで「お、彼氏からか?」とからかうように覗き込んできた。
「違います、仕事の……ちょっとしたお礼で」
嘘ではないけれど、耳が熱くなるのを隠すように、私は大急ぎで花束をデスクの陰に隠した。
返信しなければ、という気持ちはあった。でも、何を書いても、どこかが嘘になる気がして、画面を開いては閉じることを繰り返した。
『届きました、ありがとうございます』──誰に届いたものなのか。
『きれいなお花でした』──誰が喜んでいるのか。
西園寺真帆として返せば、この花を受け取ったのは姉になる。でも、柚葉として返せば、嘘が崩れる。
どちらでもない自分として、この花束を受け取る言葉が、まだどこにもなかった。
花束を眺めながら、私は左手の薬指をきつく握りしめた。気づかないうちに、いつもの癖が出ていた。
「大事な話がある」柊さんからそう連絡が来たのは、八月も半ばを過ぎた、蒸し暑い夜のことだった。指定されたのは、駅近くの静かな喫茶店だった。仕事帰りの人波から少し外れた場所にあるその店は、いつも柊さんが選ぶ場所らしく、静かで他の客の話し声もほとんど届かない。夏の熱気が、まだアスファルトに残っていた。喫茶店の扉を開けると、冷房の冷たさが、汗ばんだ肌に染み込んでいった。奥の席に、柊さんはすでに座っていた。いつもより、少しだけ表情が硬い気がした。◇「前に、話せない部分があると言った」コーヒーが運ばれてきたあと、柊さんが静かに切り出した。私は、黙って頷いた。私が姉ではないと彼に言い当てられたあの日、カフェで聞いた話の続きだと、すぐにわかった。「三年前、祖父が倒れた時──実は、母のことを思い出していた」初めて聞く話だった。「母は、俺が十七の時に亡くなった。最期に、何もしてやれなかった」短い言葉だった。でも、その短さの中に、長い年月をかけて固めてきた何かが詰まっている気がした。母、という言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが、ふっと揺れた。雨の匂い。誰かの背中に、そっと手を添えた感触。はっきりとした光景ではない。ただ、断片のようなものが、胸の奥に浮かんでは消えた。『大丈夫ですよ』──そう、自分が誰かに囁いた記憶。誰に向けた言葉だったのか、いつのことだったのか、思い出せない。でも、確かに、自分の声だった気がした。「柚葉さん?」柊さんの声で、我に返った。「……すみません、続けてください」まだ、うまく言葉にできなかった。何かを思い出しかけている、という事実だけを、そっと胸の内にしまった。◇「祖父が倒れたと連絡を受けた時、また同じことが起きると思った。今度も、間に合わないんじゃないかと」柊さんの声が、わずかに掠れた。「でも、間に合った」「ああ。あなたのおかげで」柊さ
【真帆side】グラスを近くのテーブルに置くと、何も言わず、あたしはパーティー会場を出た。廊下の隅にあったベンチに、崩れるように腰を下ろした。言ってしまった。会場で、柚葉と黒瀬さんが並んで話しているのを見た瞬間、自分の中で何かがざわついた。なんで、あの子ばかり──そう思うと、気づけば、体の方が先に動いていた。分かっていたはずなのに。柚葉には、これまで散々負い目があるはずなのに。なのに、いざあの子が幸せそうにしているのを見ると、また同じ言葉が口をついて出てしまう。──あたしは、本当に変われるんだろうか。奈緒に情報を漏らしてしまったことも、まだ胸の奥にしこりとして残っていた。あの罪悪感すら、今日また同じ過ちを重ねることを、止められなかった。『場所をわきまえてください』たった一言だった。でもあれは、怒りだった。静かで、冷たくて、それでいて確かな怒りだった。──あの人、本気だ。柚葉の背に添えられた柊さんの手を、あたしはずっと見ていた。これまで、あたしが見てきた「男の人の好意」とは、まるで違う種類のものだった。打算も、体裁も、そこには一切なかった。ただ、守りたいという気持ちだけが、まっすぐにあった。こんな風に誰かに大切にされたことが、あたしにはあっただろうか。華やかな世界で、たくさんの人にちやほやされてきたはずなのに、今夜のあの一言ほど、心を揺さぶられたことはなかった気がした。◇「西園寺さん、お姉さんの方ですよね」声がして、顔を上げた。廊下の少し先に、朔さんが立っていた。パーティー会場で何度か見かけた顔だった。「今夜の兄を、見ていましたか」あたしは、答えられなかった。朔さんが、あたしの顔をじっと見て、少しだけ表情を変えた。何かを──あたしが抱えている後ろ暗いものまで見透かされたような気がして、思わず息を呑んだ。「兄は、ああいう人間です」それだけ言
大阪出張の夜、ホテルの廊下で言いかけられた言葉の続きを聞けないまま、私たちは東京へ戻ってきた。お互いにどこかぎこちない空気を纏ったまま、日々の業務に追われていた、数日後のこと。あの関連会社主催のパーティーが開かれることになった。案件の打ち上げを兼ねた、取引先向けの立食パーティーだった。「西園寺さんも、ぜひ」先方の担当者からそう声をかけられ、柊さんも「行きましょう」と静かに言った。仕事の延長線上にある集まりだから、断る理由はなかった。会場は、都心のホテルの宴会場だった。シャンパングラスの触れ合う音と、控えめな談笑の声が、広い会場に満ちていた。まさか、ここで姉と会うとは思っていなかった。◇姉の真帆は、招待客の一人として、すでに会場にいた。真帆が最近モデルとして撮影で関わっているPR会社が、今回のパーティーの協賛先の一つだったらしい。華やかな世界で生きる姉らしい、顔の広さだった。グラスを片手に、涼しい顔で周囲と談笑している姉を見つけた瞬間、少しだけ身構えた。姉も私に気づいたようだった。私が関係者と名刺を交換し、お辞儀をしている姿を、どこか冷ややかな目で見つめている。やがて会話の合間を縫うように、姉がすっと近づいてきた。柊さんが少し離れた場所で、取引先の人と話している時だった。「あんたって、昔から要領が悪いのよね」笑い飛ばすような口調だった。でも、声の大きさは、明らかに周囲に聞かせるためのものだった。「お姉ちゃんが代わりにやってあげないと、何もできなかったじゃない」何も……ここで、こんな場所で言わなくてもいいのに。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。コンペを勝ち取り、プランナーとしてようやく自分の足で立ち上がれたと思っていた。それなのに、姉の一言で、一瞬にして『要領の悪い、何もできない妹』に引き戻される。言い返したかった。「今はもう違う」と。けれど、ここは仕事の延長
新幹線の中で聞いた「候補は絞れている」という柊さんの言葉を、まだ頭のどこかで反芻していた。でも、大阪での仕事は、拍子抜けするほど順調に進んだ。先方の担当者に企画の意図を直接説明し、これまでの経緯も含めて丁寧に話した。柊さんは、隣で静かに聞いているだけで、口を挟むことはなかった。私の仕事を一人のプロとして信頼し、任せてくれているのが伝わってきた。仕事を終えたのは、夕方だった。書式の件は、あれから一度も話題に出なかった。急かすつもりはなかったけれど、頭の隅では、ずっと引っかかったままだった。「少し、歩きませんか」打ち合わせ場所を出たところで、珍しく柊さんの方から言った。「珍しいですね、柊さんがそういうこと言うの」「たまには」道頓堀の川沿いを、二人並んで歩いた。ネオンの光が水面に鮮やかに映って、東京とはまったく違う熱気を帯びている。屋台から、出汁とソースの香ばしい匂いが漂ってきた。夕方の道頓堀は、観光客で混み合っていた。すれ違う人とぶつかりそうになり、私が足をよろめかせた、その時。「っと、離れるな」低い声とともに、ぐっと腕を引かれた。気づいた時には、柊さんの胸の中に包み込まれるような体勢になっていた。「すみません、混んでいて……」「怪我はないか」見上げると、間近に柊さんの顔があった。彼の手が、私の上腕をしっかりと掴んでいる。その体温が衣類越しに伝わってきて、心臓が跳ね上がった。柊さんは名残惜しそうに、ゆっくり手を離した。「食べたことは?」照れ隠しのように、柊さんが近くのたこ焼きの屋台を指さした。「ありますけど、柊さんは?」「ないです」意外な答えに、思わず笑ってしまう。「せっかくなので、食べていきましょう」屋台で買った出来立ての熱々のたこ焼きを、二人で分け合った。柊さんが冷ますこともせずにそのまま一つ口に入れた瞬間、驚いたように
「……柊さんは、休みの日、何をして過ごすんですか」動悸をごまかすように紅茶のカップに口をつけながら、話題を変えるように聞いてみた。昔から本が好きだとか、建築に興味があったことは知っている。けれど、『社長』という立場を離れた素の彼が、普段どんな休日を過ごしているのかまでは、まだあまり知らなかった。仕事以外の柊さんのことを、もっと知りたかった。「本を読む。あとは、模型を作る」「模型?」意外な答えに、思わず声が跳ねた。「建築模型だ。子供の頃からの癖が、抜けていない」その一言に、建てられなかった彼の夢の欠片が、まだこの人の中に残っているのがわかった。「今度、見せてください」「……気が向いたら」その返し方が、いつもより少しだけ照れているように聞こえて、愛おしさがこみ上げる。「どんな建物を、作るんですか」「決まっていない。図面もない。ただ、手を動かしていると、何も考えずに済む」「何も考えずに、というのは」「仕事のことも、他のことも。頭の中を、一度空にできる」そう言った横顔に、いつもの隙のなさとは違う、少し無防備な色が滲んでいた。◇しばらく他愛ない話が続いた後、ふと会話が途切れた。新幹線の低い走行音だけが響き、窓の外を流れる夏景色を、二人で黙って見ていた。すぐ隣にある彼の肩の温もりが、嫌でも意識される。しばらくして、柊さんが、視線を外に向けたままぽつりと言った。「父とは、あまりうまくいっていない」初めて聞く言葉だった。「……そうなんですか」「大学二年の時、父が立場を離れることになって、俺が継いだ。それからは、ほとんど顔を合わせていない」抑えた声だった。責めるでもなく、ただ事実を確認するような、乾いた口調。「立場を離れることになった、というのは…&hell
『社長の大阪出張、同行してもらえますか』城島さんからそう連絡があったのは、コンペの結果が正式に社内で発表された翌週のことだった。「私が、ですか?」『今回、柚葉さんが担当された案件の関連会社が大阪にありまして。先方が、担当プランナーご本人に直接会って話したい、とおっしゃっているんです。それと──社長ご自身も、誠一郎様の代から続く大阪の取引先に、年に一度、直接顔を出す予定がありまして。ちょうど日程が重なりました』正当な理由だった。自分の手で掴んだ仕事の延長線上にある出張と、柊さん自身の元々の用事が、たまたま同じ日に重なっただけ。断る理由はなかった。『社長がご指名でした』城島さんが、電話の向こうで、声のトーンをわずかに落として付け加えた。その一言の裏に、何か別の意図が透けて見えた気がしたけれど、深く聞くのはやめておいた。◇当日。新幹線のホームに立った瞬間、少しだけ緊張した。柊さんと二人で長距離を移動するのは、初めてだった。指定された席は、グリーン車の隣同士だった。「席、隣にしていただいて、ありがとうございます」「秘書が、勝手に手配しました」素っ気ない言い方だったけれど、横顔を見ると、その耳が心なしか赤らんでいる気がした。見間違いかもしれない。でも、そう思うだけで、こちらの頬まで熱くなった。発車してしばらくすると、柊さんが座席前のタブレットを操作した。何を頼むかも聞かれないまま、静かに画面をタップしている。ほどなくして、パーサーが紅茶を二つと、小さな洋菓子をひとつだけ運んできた。「私、紅茶とは言っていませんが」「言う前に、注文しました」「洋菓子も、頼んでいませんが」「それも、こちらの判断です」「私は、甘いものは──」「好きでしょう。柚葉さんは、甘いものを我慢する時、決まって同じ顔をする。今も、してます」思わず、頬が緩んだ。この人は、私の好みをちゃんと覚えている。「&helli
ゆっくりと扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、思わず立ち止まりそうになった。高い天井に広がる、クリスタルのシャンデリア。香ばしいコーヒーの香りと、白く気高く咲き誇る大輪の胡蝶蘭。磨き上げられた大理石の床に、自分が履いている安物のヒールの音がカツカツと不躾に響く気がして、それだけで萎縮しそうになる。場違いにもほどがある……。心の中で小さく呟き、緊張で強張りそうになる手を、そっとドレスの上の膝に置いた。ここで怯んだら、一瞬で「偽物」だと見破られてしまう。案内された席に着いた瞬間、背筋が自然と真っ直ぐに伸びた。膝を揃えて座る。手をテーブルに乗せない。視線を落としすぎないように前を向く。
「あなた、西園寺真帆さんじゃありませんよね?」その一言で、心臓が止まった。白いカップを持つ指先から、血の気が引いていく。震えそうになる手を悟られないよう、私はそっとカップをソーサーへ戻した。小さな陶器の音が、静まり返ったカフェにやけに大きく響く。どうして?どうしてバレたの?「……何のことでしょうか」かろうじて笑みを作る。けれど、目の前の彼は微笑みもしなかった。「無理に誤魔化さなくて結構です」向かいに座る男──黒瀬グループの社長である黒瀬柊は、こちらをまっすぐ見ていた。責めるでもなく、怒るでもなく。ただ静かに、"真実"だけを見
一段階低くなった姉の声が、耳の奥に刺さった。『あたしが今の彼との話をまとめるまで、黒瀬の目を逸らし続ける必要があるの。黒瀬家とうちの家、色々と込み入った事情があるのよ。あんたが勝手に終わりにして、黒瀬側から実家に何か連絡でもされたら、全部おじゃんになる。わかる?』「わかってる。でも──」『断るなら、五年前のこと、全部バラすから』返事も待たず、音が消えた。また、五年前のことで脅されてしまった。昔から、姉は私の弱いところを探すのが上手かった。私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
『先程は、お時間をいただきありがとうございました。──黒瀬柊』彼からのメッセージは、それだけだと思っていた。数秒後、同じ番号から、もう一通届いた。『次回、ご都合の良い日を教えていただければ、合わせます』画面の番号を、もう一度確かめた。間違いない、黒瀬さんからだ。お見合いの書類に載っているのは、姉の連絡先のはず。さっき、私が口頭で伝えた番号──黒瀬さんはそちらに送ってきたのか。「合わせます」という一言。感情がない、と思った。温かくもなく、冷たくもなく、ただ的確だ。







